投資と読書と平凡サラリーマンの私。

読書とランニングと投資を行う平凡な社会人のブログ

【雑記】手作り至上主義は焼き芋には適さない

焼き芋が好きだ。

イモ類は炭水化物豊富なので避けている。特にジャガイモは。

しかしさつまいもは別。食物繊維が豊富。このメリットはでかい。

 

手軽においしくさつまいもを食べるとしたら焼き芋一択。

自宅で作る場合は「オーブン170℃で1時間、その後一晩保温」これでかなりおいしくできる。

時間がかかるが、週1~2回作っていた。

 

しかし先日なんとなく近所のスーパーで石焼き芋買ってみた。店頭で焼いているやつ。

激甘!激ウマ!オーブンとは比べ物にならない美味しさ。焼き芋ではなく石焼き芋

赤外線おそるべし。そして普通のさつまいもとほぼ同じ値段。

 

スーパーが石焼き芋を販売している間は自宅で焼き芋作るの辞めます。

 

 

【書籍】「父がひとりで死んでいた 離れて暮らす親のために今できること」如月サラ

「父がひとりで死んでいた 離れて暮らす親のために今できること」如月サラ

 

<所感>

東京は日本中の田舎モノ集まる場所。半分は地方出身者でと聞いたことがある。

多くの人は故郷に実家があり、親が住んでいるだろう。そしていつか寿命を迎える時が来る現実がある。

このいつかの現実は地方出身者東京在住の自分にもくる現実だ。

 

いつのころから「終活」という言葉が一般的になった。

死の話題は言霊信仰の日本におけるタブーのひとつだが、残された家族や近親者への影響を考えると、その準備は必然と理解できる。

だから、その重要性はわかる。

しかし、この本は単に終活という話ではなく、誰もいなくなった実家の中の虚無の空気感が何よりも切ない。

さらにその後、具体的にどんな対応に迫られるかという描写があまりに具体的でつらい。

 

自分にもいつかくる。いつだろう。遅くとも30年後か。もしかしたらもっと近い未来か。

その時に自分は何歳だろう。肉体的にしっかりと対応できるのだろうか。

さらに金銭面は?精神面は?

 

また本書では地元の友人が協力する記述が多々見られる。持つべきものは友人である。人生とはそんなものなのかもしれない。

 

故郷から実家から離れて暮らしてこの本を読む人へ、ひとつ注意点。決して電車やカフェで読んではいけない。

涙が止まらなくなるので、自宅で一人でこっそりと。

 

<目次>

【目次より】

第1章   ある寒い冬の日、遠く離れて暮らす父が孤独死していた

第2章   自室でひとり死んだ父は、最期まで生きようとしていた

第3章   父亡き後に残された老猫4匹   東京への移動大作戦を敢行

第4章   「ごめんねえ、お父さん」遺影を見て認知症の母は言った

第5章   父が亡くなり母は施設へ   残る無人の一軒家と維持費問題

第6章   住む人のいなくなった実家は驚く速さで荒れ果てていった

第7章   「号泣するなんて恥」父の死を悲しむ自分が許せなかった

第8章   私には緊急連絡先がない   ひとり老いてゆく未来を考えた

第9章   無人の実家に通いながら考えた、これからの仕事のこと

第10章  一番仲良しの叔母が亡くなった   そう知った認知症の母は

第11章  故郷を遠ざけてきた私を、友人たちは近くで支えてくれた

第12章  父の死が紡いでくれた新たな「縁」   生きてゆく力になる

終章    父がひとりで死んでいた-   ひとり娘から父への手紙

【日常】人が枯れ木になるとき

共働きだった両親に代わって、子どものころ平日や夏休みに毎日のようにお世話になった第二の母と言える人に会ってきた。2年ぶりの再会。

会った理由は、3日前に、昨年末から急に体調が悪くなったと連絡があったから。

 

2年ぶりにあった第二の母は別人だった。

体重は10kg以上落ちてげっそり。一人で歩くことはできない。とにかく目に生気がない。

かろうじて自分のことはまだ覚えていてくれて、少し話はできた。

しかし短期記憶が無くなりつつある状態という。

ずっとちゃきちゃきで元気な人だったのにもう、枯れ木のようだ。

いくつも検査をしているが原因不明。この先の見通しが無い。

 

ただ辛い一日。

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【書籍】「カキフライが無いなら来なかった」せきしろ、又吉直樹

「カキフライが無いなら来なかった」せきしろ又吉直樹

 

五七五の形式ではない俳句である自由律俳句集。そして俳句にまつわるエッセイと写真が少々。

気に入った句と一言。

 

せきしろ作品

「醤油差しを倒すまでは幸せだった」

幸せな場が些細なことで一辺。誰もが経験したことのあるそんな風景を思い出させる句。生活感満載の醤油差しがきっかけだが、本当のトリガーは子どもか、お父さんの肘か、それとも飼い猫か。どこまでも日常の一コマが続く物語を想像させる。

 

「風呂桶の中で膝ばかり見る」

体育座り。体育の時間でなければ、喜怒哀楽のうち喜でも怒でも楽でもない。ぬるま湯にぽつり。静寂のなかでぽつり。いつになったら前を向けるようになるのか。

 

又吉直樹作品

「路傍の隅っこには以前はなかった花束と珈琲と」

そこにあるのはお菓子でもなく酒でもなく珈琲。まだ10代だったのかもしれない。働き盛りの青年かもしれない。家庭を支える大黒柱だったかもしれない。とても哀しむ人がいる。しかし日常は続いていく。

 

「古本屋の店主が同じ年」

ある日か甲子園球児が年下と気が付いたとき何故だかショックを受けた。固定観念はどこにでも存在する。大学教授、医者、バーのマスター。こういう人ってこれくらいの年齢と思っていたのに。というか20歳はオトナ、30歳はもっとオトナ、そう思っていたのに。結局こんなものである。

 

「登山服の老夫婦に席を譲っても良いか迷う」

おもわずくすっとなる句。健脚自慢の老夫婦のプライドを逆なでないか心配だ。それともあくまでも老夫婦ということで席に座りたいのかも。自己中?いや、単にその健脚は登山のためのもので、ただ立っているためのものではないと考えているのかも。あるあるネタの文字をそぎ落として俳句になったかのようだ。

 

「まだ何かに選ばれることを期待している」

本書の最終ページの俳句。俳句というか共感度の高い一文。「まだ本気を出していないだけ」に通じるものがある。しかし「期待している」と謙虚さの中にプライドを感じさせる言葉をチョイスしていることで、この文字群が俳句に昇華しているのだろう。

【書籍】「日本、遥かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」」門田隆将

「日本、遥かなり エルトゥールルの「奇跡」と邦人救出の「迷走」」門田隆将

 

<所感>

1890年、日本は和歌山県沖でトルコのエルトゥールル号の遭難を助けた。

それから125年後、1985年にテヘラン空爆された際に日本人を助けたのはあの遭難事故で恩義を感じたトルコだったー。

本書はトルコの親日国ぶりを示しただけの本ではない。

日本人が海外で危機に直面した際の日本国としての課題を浮き彫りにしたものである。

その課題とは「日本には海外で自国民の生命を守る」ことができないということ。

 

1953年テヘラン空爆、1990年イラク軍クエート進行、1994年イエメン内戦・・・。

いずれも日本は、諸外国ならば当たり前の「自国民の救出」ができなかった。

理由は憲法9条と一部の人間による軍事行動への異常な嫌悪感。

 

2015年に在外邦人救出すべく自衛隊法が改正となったが、実行のために「戦闘地域ではないこと」や「当該国の同意があること」などが条件となっている。

戦闘地域だから救出が必要なのだが・・・。

 

嫌悪感をしめす人間はマスコミ、日弁連や一部野党。

彼らが意味不明に口に出す「戦争法案」「憲法反対」「徴兵制」というワード。

このワードを使った発言には要注意である。

 

諸外国が当たり前にできることが自国ではできない。

何かと国際化が叫ばれるが、この点を理解することこそが第一歩と思う。

 

そしてそれぞれの争乱に巻き込まれた在外邦人(ほとんどが商社の人。そして資源関連会社の人)の苦労がしのばれる。そしてそこで気が付いた自国の限界をもっと訴えて欲しい。

令和になってもまだまだ何も変わっていない現実があるのだから。

 

<目次>

第1部 海と空の恩義

第2部「命」は守られるのか

【書籍】「経済学者が語るスポーツの力」佐々木勝

「経済学者が語るスポーツの力」佐々木勝

 

<所感>

 

興味深かったのは2点。

①スポーツすることは社会人に役に立つはず

認知スキル…国語、数学、英語などの学習指導要領によるスキル

非認知スキル…協調性、自己管理、統率力、忍耐力、思いやりなど

スポーツは非認知スキルを培う絶好の手段であり、非認知スキルこそ社会人に重要なスキル。

自分にスキルはあるか?この問いの答えは自分がやっている(いた)スポーツから見出すことができる。

その意味ではスポーツをすることは有用。

 

②マラソンは目標達成より損失回避行動が露骨なスポーツ

市民ランナーのマラソンの目標タイムはキリがよい時間が多い(サブ4=4時間切り、サブ3.5=3時間半間切り)

目標タイムが未達成なら大きな後悔となるので、この後悔回避のために走るランナーが多数。

これが損失回避。

市民ランナーのマラソン大会のタイムの分布表を見ると4時間や3時間半切り間際のランナーが多い。

しかし、ハーフマラソンや10kmの大会ではこのような分布にはならない。

ラソンは特殊である。

 

<目次>

第1章 スポーツから非認知スキルを習得できるか?

第2章 スポーツが女性の社会進出を後押しするか?

第3章 スポーツで目標を達成する力を伸ばせるか?

第4章 選手への報酬を増やせば勝てるのか?

第5章 多様な人材がチームを強くするか?

第6章 企業がスポーツ・チームを持つのは得なのか?

第7章 企業にスポーツ支援を頼りきりでよいのか?

第8章 オリンピックに経済効果はあるのか?

第9章 高齢者のスポーツ参加で介護費用は抑えられるか?

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【書籍】「中原中也 (日本語を味わう名詩入門)」 荻原昌好 編

中原中也 (日本語を味わう名詩入門)」 荻原昌好 編

 

中原中也は「汚れちまった悲しみに…」で有名で夭逝した詩人。そんな印象だった。

しかし彼の詩にまともに触れたことはなかったので本書を手に取ってみた。

 

総じてその詩の行間にはもの悲しさと寂しさが見え隠れする。

色ならばモノクロというか紺清色。しかしどこかで共感できる。だからこそ味わいがある。

 

「生い立ちの歌」

幼年時

私の上に降る雪は 真綿のようでありました

少年時

私の上に降る雪は 霙(みぞれ)のようでありました。

・・・

 

自分の人生の各時代の心境や状況を様々な雪の状態で表現した詩。

単純に方法論としての表現が秀逸。

しかし一方で、いずれの時も「降る雪」になぞらえざる点が作者の孤独感を表している。

 

「頑是ない歌」

思えば遠くへ来たもんだ

十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた

汽笛の湯気は今いずこ

 

どこか地方にいた一人の人間が人生の時を経る中で、あの頃を思い出し、そして今を見つめる。

今はどうしてここにいるのか?なんとかやってきた?これからどうする?どうなる?

あのころの自分の思いは今につながっているか?

地方からでてきて都会で生活をする一般的な人々の胸に刺さる。

つまり自分の旨に刺さる。

本書の中で最もお気に入りの詩。

 

「少年時」

夏の日の午過ぎ時刻

誰彼の午睡するとき、

私は野原を走っていった・・・

 

eastern youth吉野寿氏は中原中也を愛読していると聞くが、この詩を読むとそれがうなづける。

限りなくeastern youthの歌詞である。

いや、逆だ。中原中也を受け継ぎ歌うバンド、それがeastern youthだ。

 

「月夜の浜辺」

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちていた。

 

eastern youth吉野寿Husking beeの磯部氏に日本語歌詞の重要性を説いた後。

そこでできた曲が「欠けボタンの浜」。この曲の歌詞は「月夜の浜辺」の歌詞そのものである。

ちなみに「ボタン」は服のボタンなのか、それとも他の意味があるのか。

この詩からはわからない。

しかしボタンにひたすら固執し執着するする様子が書かれるこの詩が暗示する何かを味わうことにおいてはボタンの意味はなんでもよい。